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武田氏滅亡と社地鳴動


神木八本杉 本殿の後なり
康永五年九月新羅三郎祈願にて植る所也天正九年社地鳴動して北の一本根より倒れ又翌年の四月勝頼滅亡の砌三千石余の社領織田信長公取放さる全其前表なりと謂伝ふ今七本有之
内三本立枯にて中切なり至て古木

甲州巡見通行記 甲斐叢書 第二巻

 現在山梨市にある窪八幡神社本殿の後ろにある神木の八本杉には、康平五年(1062)九月に新羅三郎義光が祈願して植えたとの伝承がある。武田という名字は、義光三男の義清が常陸武田郷(茨城県勝田市)に城を構えて称するので、義光は武田氏にとって特別な先祖とされ、特に伝承の世界では重要な位置を占めることから、義光手植えの杉となれば武田氏にとって祖霊のシンボルともなる木である。
 この木が武田氏の滅亡の前に倒れたという。すなわち、江戸時代将軍の代替わりごとに各地に派遣された政情・民情視察使である巡検使が、寛政六年(1794)に通行した際にまとめた『甲州巡見通行記』によれば、天正九年(1581)に窪八幡の「社地鳴動して、北の一本根より倒れ」たという。これは翌年に武田勝頼が滅亡した時、当時窪八幡が領していた三千石余の社領を織田信長が奪取した前ぶれだった、と言い伝えられている。
 天正九年の窪八幡の社地鳴動の具体的な音の模様などは記録や古文書として伝わらないが、その一連の変異の中で義光手植えの杉が倒れたのであるから、大地が震動して大きな音があったのであろう。八幡神は源氏の一族である武田氏が尊崇する神であり、その神のいる社地が鳴動し、先祖が植え、正月の門松や神社の榊などと同様、神の下り来る目印となる木と想定される大杉が倒れたとは、ただごとではない。窪八幡神社を信仰する人々には、さぞかし大変なことが起きる前触れと感じられたであろう。
 幕末に書かれた由緒によれば、窪八幡神社は甲斐国総鎮守ともされ、欽明天皇二十年(559)に物部尾輿に勅命があり、河内国志紀郡にある誉田別尊(応神天皇)廟の石を祀ったのがはじめだとされる。その後、康平五年に甲斐源氏の祖の新羅三郎義光が奥州の夷族退治の祈誓をこめ、康平六年八月に社を再建した(『甲斐国社記・寺記』)第一巻、山梨県立図書館)。つまり、この神社は源氏にとって祖先ともいえる、天皇家の祖霊信仰とも結びつく特別な神社なのである。
 窪八幡神社は武田氏と関係が深かっただけに、現在の各社殿は室町時代に武田信満、信虎、および信玄などによって改築・修理がなされた。先の伝承では鳴動の理由を、この翌年武田氏が滅亡して窪八幡の社領が取り上げられる前触れとしているが、諏訪上社の事例をもとにすると、本来は武田氏滅亡の予知に重きを置いて鳴動した可能性が高い。つまり、武田氏と特別な関係を持つ神社で、武田氏の滅亡を知らせる鳴動があったことになる。諏訪氏の滅亡の前年に諏訪上社で鳴動が聞こえたのと同様、武田氏が滅亡する前年、武田氏と密接な関係にあった窪八幡神社でも鳴動が起きたことになる。
 なお、窪八幡神社の鳴動に関係する史料もこれだけしか伝わらず、近世には実際の鳴動の記録も全く残されてない。実際に事件があってから二百年後の史料に残る言い伝えからではあるが、一族と密接な関係を持つ神社が一族の危機に際して鳴動して連絡してくれるとの認識は、戦国時代に甲斐の武田氏でも窪八幡神社との関係において存在したことになる。

笹本正治「鳴動する中世 怪音と地鳴りの日本史」(2000)朝日選書
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